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「どこにいても私は私である」

「心の健康」2002年8月 第109号
「異文化の中のメンタルヘルス」特集

平成14年8月31日 出版
北海道精神保健協会 発行
(これは平成14年7月3日に提出したテキスト)

北海道情報大学 講師
有道 出人(あるどう でびと)著

14,000字


始めに

 先述したいのは、私は専門家ではない。精神学で訓練されていないし、医学者として見解を述べることはできない。私の分野は政治学(米国コーネル大学学士)と経済(カリフォルニア大学サンディエゴ校商学修士)ので、完全な素人として私の意見を述べる。ただ、日本在住が14年間が経ったので、私一人として色々な対処法を実施し精神的に容易に日本に住めるようになった。よって、「経験者」の観点を言わせていただく。
 「メンタルヘルス」を保全するのにきちんとした「心構え」はもちろん要素である。ご参考のために、私の心構えをこれからの論文で説明する。


「異文化の中のメンタルヘルス」とは

 違う国に住むのは当然色々な「メンタル・チャレンジ」(精神的挑戦)がある。異なる言語、食べ物、人間関係、慣習、物価、価値観、業務上の責任感、社会での役割などには共通点があり相違点がある。人はそれぞれに慣れて「暗黙の了解」の程度まで把握するのが非常に時間がかかる。慣れる間、精神的にインパクトがある。
 そのインパクトにとって外国人の経験はもちろんそれぞれである。人々はそれぞれ出身地があり、それによって「チャレンジ」に対して多少な有利がある。例えば、もし或る人は外国に行って、既に母国から来た人は大勢当外国に住んでいるなら、(例えば、日本の場合なら在日韓国人・中国人・ブラジル人・ペルー人・フィリピン人など)、その人は外国人が集まっている場所に行けばそれなりの「サポートグループ」があり得る。よって異文化による「カルチャー・ショック」はある程度緩和できるだろう。でも、その集まった場所に行かなければ、もしくはその国に同出生地者が少なければ、孤独になり裸でインパクトを受けるかもしれない。
 でも、「サポートグループ」があってもなくてもいずれに、結局外国人は異文化に接触するのが必然的であろう。比喩的に「サポートグループ」を「外国バブル」に例えよう。バブルと同じように、グループは「ソト」、「ウチ」と「カベ」があり、中身を巻き込んでいる。でも、グループのメンバーはいつか人生のやり取りで(例えば就職、販売、投資、食事、融資、不動産購入、医療、法律厳守など)暮らしている国・社会と接触しなければならない。だから、外国人は絶えずサポートクループは依存してはいけないと思う。要は、不可避の「カルチャー・ショック」で「バブル崩壊」が起きるのは時間の問題だけだと思う。
 よって、人の「メンタルヘルス」の保全は結局「グループ」よりも独りひとりの問題と思う。個人的に異文化社会に対しての対処法を作らないといけない。だから、これからそれぞれの日本における「メンタル・チャレンジ」を述べて、私個人の対処法を言う。


先ず、自分の日本社会における役割は?「ゲスト主義」のチャレンジ

 初来日する理由は労働、移民かつ難民でもあるが、戦後においては統計的に一番多い入国する理由は観光だ。たいてい「カルチャービザ」や「ツーリストビザ」の元で、3ヶ月間滞在期間(保証人がいったらワーキングビザなら1年間)。従って在日ステータスは
短期的でなる。よって日本社会では外国人にとって「貢献者・納税者・移民者」というイメージ・社会役割よりも「ゲスト」に過ぎない意識が頻繁だ。日本政府さえまだ公に「在日外国人らは日本の良心的な貢献者だ」と認めない。

(脚注1:かえって、「来日外国人による犯罪が多くなった」と日本警察と石原東京都知事は公然に述べ、W杯の間は特に「フーリガン対策」は結局「反外国人対策」らしくなった。これは脱線だが、要はこの現象によって外国人の疎外感が高まる。)

 結果は「ホスト」と「ゲスト」の関係で見られるので、外国人の社会的の立場が弱まる。よって、日本での様子、待遇について批判、批評、改善要請するのはたいへん難しくなり、「我々はゲストだからホストに文句を言うな」を納得する外国人もお互いにも言う。ならば「在日外国人社会」は「在日役割の意識混乱」によって一致できなければ、バラバラになる。まるで乾いたライスみたく「パサっぽい社会」となり「サポートグループ」を阻む。だから、外国人は日本社会にずっと住んでも、ようやく「私がゲストじゃない」と主張しても、日本の世論はなかなかそれを認めなく、しかも多くの短期的滞在の外国人も納得できない。次の日、また「私がゲストだ」と思い込む外国人は新ためて来日する。
 でも、長期的に在住する「外国人」は「ソトのクニからきた人」よりも「国際住民」まで卒業しなければ精神的に危ないと思う。人間は「マイホーム」の気持ちは必要だと思う。だから、社会的に疎外されるなら、独りでタフとなって「マイホーム」を決め付けなければならない。この「タフな人間とは」につて後で話す。
 とにかくこの「ゲスト主義」現象は、精神的なインパクトの「カタリスト」(『触媒』、即ち社会的に変化の速度をかえる現象)だ。まるで食事にスパイスを。万国共通に異文化に住むだけで充分なチャレンジになるが、日本社会特ににある潜在的な「既にあなたはここに属しない」前提はさらに他の基本的な「チャレンジ」を拡大して悪化する。
 さて、具体的に、他の「チャレンジ」は何だろうか。

1)職場で「両極端な待遇」

 当然に日本で暮らすために仕事が必要である。でも、外国人社員に慣れてない職場なら、異文化による特別なニーズ(言語の障壁、帰国のため延長休暇など)を応じないことが多い。外国人社員に慣れてる職場なら、「外国人は平社員ではなく、短期社員だ。どうせ帰るでしょう?訓練してムダ」との前提になって正式ではなく任期のみの雇用が多い。いずれも劣る待遇になる傾向があり、精神的に「私はなぜ日本にいるの。自分は本当にプロらしく仕事についてプライドを持てるか」と疑問することがある。
 逆に、極端に走ると「外国人だからこそ、あなたは特別な社員だよ。我が社の国際化を促進する役割を与える」と言われる可能性がある。しかし、国際化担当として自分の思う通りを勧めると、上司か同僚から「これは前例がないからいけない」、「これは日本的な考え方じゃないから誰も相手にしてやらない」などの反応となるなら、どれくらい自分の職務上の立場に矛盾まみれだと意識すると更に絶望が深まる。

2)いきなり黒一点となり目立つ

 これは特にアジア系ではない人が受けるショックだと思う。外見的に周りの人と違って珍しい。すぐ目が奪われうのは人間関係でとっても自然な反応であろう。だが、自分が「マイノリティ」になることは有利(例えば「あなたが外人だからこそ好き」を言う人もいる)もあるものの、時間が長引いて日本社会に慣れて日本語が上達しても、周りからジローと見られること、子供の指差し、「あくまでも我々と違うよ」との言い方と態度は歯痒くなる。やむを得なく外見が違うのは社会的な溶け込みの阻害となる。
 しかし、逆の場合にも問題がある。アジア系で外見上で同じでも、周りの人から「なぜ我らと同じ顔があってもこういう簡単な言葉、この常識が知らないのか」との反応もある。日本はまだアジア系の人、特に東南アジアに対して横柄な態度も示すことがあり、先進国・途上国の関係で等しくしないことがあり得る。なぜ日本社会はこういう風に人を厳しく選別するかというと、

3)「人は国だ」との社会学的分析

 日本では外国人みたいな人を見ると、「お国は?」とすぐ尋ねることが多い。それは人柄を把握ために「ソーシャル・ステータス」(年令、職業、社内地位、母校、など)を尋ねるであろう。しかし、「国」まで尋ねて「ステータス」を決めるのは大袈裟にならざるを得ない。「アメリカ人は個人個性・人権を重んじる」、「イギリス人は紳士」、「中国人・韓国人・ロシア人は・・・」の前提をよく聞く。まるで人の分類して「箱」に入れる。それに加えて、「外国と日本は違う。日本はユニークだから」の前提が多いため、外国人と接触して外国を知り合おうとすることは少なくはない。まるで「外国と対照すると日本の勉強にもなる」という分析方法。私はそれぞれのいわゆる「国際交流団体」でよく経験する。
 これで勉強されている人は精神的インパクトを受ける。いつでも「観られている」勘となり、いつでも「自分の行為が素行であるか」、「こうすると恥じになるか」と自分に意外なプレッシャをかける。単なる外に出るこどのみで絶えず自己点検になりがち、面倒臭くて家に残り得る。即ち、もし本人は「私は国の代表だ」と納得したら、自分の行動によって「母国に恥じをかかえせるのか」または「在日外国人全体のイメージダウンになるか」と余計な心配する。極める場合には「ホストに逆らえない」、「これは日本のマナー違反になるだろうからやめよう」と思い自分自らの立場を崩す。

4)「ニッポンのやり方」が存在する想定

 ひいては、「日本のマナー」、「ニッポンのやり方」(THE JAPANESE WAY)のことはよく外国人に対して言われている。「日本ではこうしない」、「日本人はこう思われない」、「ニッポンのやり方だよ」。実は、これが精神的に非常に大きな陥穽(かんせい)となる。
 社会レベルだけではなく、細かく個人個人の関係で言われることもあるが、人の行動についてアドバイスを言う。アドバイスに過ぎないかもしれないが、いわゆる「注意事項」扱いにもなり得る。「注意」なら一番インパクトがある。なぜなら、例えば、社内の上司・部下、国際結婚の姑・花嫁などの時、不均等な関係がある。ルールに従わせるために「これは我々のやり方」で迫力もかける時もある。もちろん、単なるアドバイスとなる時もあり、良心的に「こういうことすると困るよ」もある。が、目上の人は特に乱用できる。言い訳として「我々日本人はこうしないので、これは日本だからあんたも従いなさいね。『郷に入れば郷に従え』が原則だ」。けれども、生まれ育ちの日本人の目下なら「そんなことがない。それはあなただけでしょう。本当は一般的に違うよね」の確信を持ち、面従腹背ができる。外国人なら、日本の一般が分からなくて自信を持って精神的に逆らわない。そうやって腹黒い人に利用されて深い精神的なダメージを受ける。
 要は「ニッポンのやり方」とよう発想事態がたいへん乱用しやすい。誰が「ニッポンのやり方」を決めるのか。誰が日本代表として立って断言するか。もちろん、日本では「日本的」な慣習、習性、傾向、スタイルと文化などが存在している。長い歴史と長引く前例もある。但し場合によって「ニッポンのやり方」はまとめて「一つしかない」わけではない。日本の社会は多様的、人の好みと個人意志もある。即ち「ニッポンのやり方」の姿と実施は人の意見により、臨機応変と摘要がある。
 だから、私のよくある経験だが、目上はまだ日本の情勢が分からない異文化の目下を利用し、私は「目上の意志」が本音なのに「日本だから」を建て前で人を抑圧あった。しかし、このショックを防ぐために、日本を研修して実態を把握して自分で経験上の「ニッポンのやり方は一つだけじゃない」を言い切れるのは数年間がかかる。その時まで、本当に他人のなすがままに、自分メンタルヘルスが相手次第だ。

5)性別によって社会扱いが非常に違う

 私は男性だから外国人女性の立場について言えないが、私の観点からやはり男女によって社会待遇が異なる。日本社会はまだ「マンズ・ワールド」の現象は強い。欧米よりも強いと思う。先進国としては男女比較収入差額は日本が一番で、結婚しても男性のみが「大黒柱」だとの世論が強い。男性の方が法的でも「リーダー」になりやすく、例えば書面的に住民票で当局は男性だけを「世帯主」にする。経済的にもキャリアにとっても、男性は「本職」であり雇用にの面で女性より優先にする傾向。個人レベルでも、外国人男性なら日本の女性となかなか接触しやすく、年令と関係なく知り合うチャンスがある。
 しかし、外国人女性への待遇と比べよう。前述の通り収入が少なく、仕事上で「職場の花」や「お茶汲み」の文化・役割で慣れていない人にとって「女性はプロじゃなく侮辱だ」と。女性社員が結婚すると会社をやめることは少なくはないし、育児休暇はたいてい無理なので家族とキャリアを選択しなければいけない。そして、35歳以上の女性なら就職しようとアルバイト賃金で我慢。法的にも外国人女性は殆どの自治体及び自治省では「事実上世帯主」でも日本の旦那の住民票で名称を載せない。個人レベルでも差がある。例えば、外国人女性が日本人男性を友達として長く付合う。しかし、もし女性が独身のままで男性が違う女性と結婚すれば、その男性が敬遠する傾向が強いと。なぜなら彼の妻は「なぜ独身女性と付合うの?」反対する場合がある。でも、もし外国人女性は日本男性と結婚すれば、たいてい旦那の家族に入籍する。それで「家に染まる」現象が起き、姑とたいへん不均等な関係で摩擦となる。
 これは日本の悪口ではない。言いたいことは、良くても悪くても、この異文化と制度が分かららなくて予知できない女性が不利であり、比較的に外国人女性のセルフ・イメージの厳しいダメージを受ける可能性が高い。

(脚注2:日本における男女国際結婚比例だが、実は統計的に「日本夫と外国人妻」とその反対方より圧倒的に多い。しかし、たいてい外国人妻はアジア途上国から来て日本の農家と結婚する。「メール・オーダー・プライド」が多く、「プロ」として勤めるする期待は違う)

6)誰がアドバイザーになるかを迷うこと

 人間関係では問題が発生するのは必然的。でも、異文化ならどうすればいいのかはもちろんを迷う。では、文化が解る人と相談する。A-さんは「○○○をすればどう?」。しかし、 B-さんは「×××をすればいい」。全く反対なアドバイスをもらってどうすればいい?たいてい、「世論」を把握するために調査をするが、大きな「サンプル」が必要。つまり何人もと相談しないと「対処法」、「戦略」を図ることは難しい。
 でも、「サンプル」は相手が答えてくれるのは想定だ。しかし、人は曖昧に答えること(例えば、調査した人は「その人の価値観によるだろうが、その場にいなかったから分からない」もしくは「その人は知らないからなんとも言えない」と言い切れない)。特に、日本は「沈黙が金」を思う人がいて、長く付合わないと全然自分の意見を言わない人も結構いる。しかも、本当に「本音」で言ったのかも心配。正直に言うことは「バカ正直」にもなり得る。そして、周りにいる人によって答えは変わる。「真実」や「意見の現わし方」は場合や聴く人によるであろう。結局、誰を信用すればいいのかを迷う。
 要は、本当にいいアドバイザーができなければ、異文化に住む人は道徳的に「真実」は「虚偽」の線引きがぼやけてきて、見分けられる自信が崩れてしまう可能性がある。

7)「公平」に対する価値観が違う

 「フェア」とは欧米で抜本的な美徳だ。「フェア・プレー」、「フェア・トレード」「フェア・プライス」をよく聞く。が、時々日本では「公平さ」は「ルール守り」ほど大事にされている時もある。例えば、もし「黒が白だ」という先輩・年輩を言うなら、なぜ後輩・目下は考えを口にしないのか。もしエゴイストの目上は生意気な目下を虐めたり転職させたり辞職させて、なぜ周りの人は何も逆らわない?なぜこの人は正直に真実を言っても、言い方のみで皆から批判される?日本社会で色々な「アンフェア」な場合を見てから「なぜ日本人がこんなに目上に対して臆病なのか」と思ってしまう。
 しかし、外国人は序列制度は「フェア」のためではない。「上下関係を明確にするため」である。それを意識しないと絶えず異文化が分からなくて唖然として日本社会を抵抗する。

8)「常識」よりも「前例」を重んじる傾向

 私が思うのは、日本の重視する道徳・やり方の一つは、「個人的に責任をとりたくない」。よって、何かの行動を起こす前に、誰かがリスクを背負うのかを確認する。誰かが先頭に立つ前に「前例があるかどうか」を調べる。それをベースにして動く結果は、真新しいことを採用することよりも昔からのことを維持する傾向が強い。それで保守的な行動になりがちである。結局、日本社会、特に公務員制度では、いくら99%の人々は「これをやって常識だ」であっても、「鶏が先か、玉子が先か」という現象で常識的にならない。
 よって、外国人は「なぜ当たり前のことをしないのか」、その「前例が慎重」考え方を理解しなけれべば、日本社会を尊敬できなくなってきて「日本はどうでもいいや!」と反発する。

9)カルチャー・ショックの際、自分を攻める

 前述の通り、異文化で暮らすとカルチャー・ショックは必然的。しかし、日本では過激な反応が許されないことがある。例えば、ムカっとする顔で、人の前に怒ったり怒鳴ったりすることは望ましくないであろう。なるべくその怒り、特にショックを受けてないから同情ができない周りの人は、自分の中に閉じ込めることを勧めるだろう。しかし、長期的にそうするたいへんなメンタルダメージになると思う。
 それに加えて、欧米では、特に人種・文化的に多様社会から来た人は特別な「寛容性を促進する教育を受けた。自分の価値観・文化を異文化のある人になるべく押し付けてはいけない。すると、「Cultural Imperialism」(文化的侵略主義)になり得る。この概念のルーツは複雑な歴史にある。19世紀後半と20世紀前半にかけてダーウィニズム(生存競争・適者生存の原理)が流行だった。生類のみではなく、社会現象に適用した理論となって、「社会ダーウィニズム」(Social Darwinism)の元で「人種的上下主義、白優秀黒劣等主義」が発生した。が、極論になり第二次世界大戦の人類大虐殺と文化抹殺を正当化した信仰になった。よって、戦後の教訓一つとして、先進国のリベラル派は特に「異文化に対して均等に扱う」を教育される。
 しかし、極論となった場合もある。文化的相対論主義者(Cultural Relativist)は、「文化の上下がないため、日本の文化は違う文化だから私の文化に逆らっても何も言えない」。こうやって自分の腑(ふ)にある気持ち全部を無効にし、カルチャー・ショックを受けると「私は充分な寛大性がないから」と思い自分を攻める。結局「我を捨てなければならない」と考え、自分の気持ちを切り捨てて日本を鵜呑みしよう。結果は何も言えなくなって中に閉じる。こうやってメンタル・ダメージとなる。

10)「日本は絶えず理解できない」と諦めて、さじを投げる

 これは精神的に一番危ないこどであろう。「私は日本語を学べられない。日本に慣れられない。もういい!」と諦める。でも、そうすると悪循環が生じる。進展がみえないからこれから頑張らない。でも頑張らないと進展しない。だったる上達も無理になる。実は日本に住むと理解度は階段みたいに「ステップ」がある。つまり言葉の収集率はグンと上がって、それから暫くそのままフラット。この横這いは定期的に3ヶ月目、6ヶ月目、1ヶ年目、18ヶ月目、2年目云々あるらしい。問題は、フラットは「どん底」だと誤解し、次ぎの段階に行くために着実な努力が必要だ。日本語が理解できなければ、日本社会も理解できないと思う。

* * * * * * * * *

 では、今まで異文化による「メンタル・チャレンジ」について言った。さて、どうやって乗り越えればいいのか。私は特別な「メンタル・ソフトウェア」を造っってそれぞれ対処法と採った。どんな対処法と言うと、

1)日本語を学ぶこと

 日本に住むなら住民らしくしゃべるべきが当然である。学び方は人ぞれぞれだが、日本語を勉強したければ在日するのは最適。毎日テレビを観たり、新聞やマンガを読んで漢字を覚えたり、日常的にでる日本語(周りにある看板、交通での発表など)について好奇心を持ったりすることは自然に身に付ける。フォーマルとインフォーマルな設定でも人と交際して、可能なら国内で旅行して、趣味を耕して、日本の面白みを見付ければ「勉強」の苦労はなかなか解消できる。
 ある外国人は反論を言う。「日本語を勉強すべからず。日本語が知っている外国人が逆に『変な外人だ』と貶される。英語で交わすと日本人がかえって優しくなる」を言う。が、もうその時代ではないと思う。それどころか、日本語をきちんと学ぶ人がよく評価され、人の評価と別に、日本語ができない人は自分の運命をコントロールできないわけである。日本語は単なる交流の手段だけではない。日本語は日本で人生を送るカギである。

2)時々コミュニケーションは上手に伝わらない日は当然だと思うこと

 ある日は日本語ができる、ある日はできない。口が回らなければ「言語がいわゆる『化石化』(言語レベルが固まってそのままでフリーズ)したと考えすぎないように。人間だからエネルギーの限度はあり、疲労は無意識にくる時もあると。解決策は休憩、特に「化石になった」日に早めに寝ること。体の「電池を充電した」次の日を楽しみに。

3)信用できる人のみを付合うこと

 これは暗黙の了解まで言えるくらいの常識であろう。しかし、独りで来日すると色々な人と接触して、「この人の変わったところは文化の違いか、その人個人がおかしいか」と選別するのは時間がかかる。私は避ける人のタイプは:ア)「変な奴」(即ち、約束を守らず、言うこととすることが違う人)、イ)「文化狩り屋」(即ち、外国人が文化のコンテイナーとして見て自分の経験のために付合う人)ウ)「外人グルーピー」(即ち、外国人を自分の体験のために付合う人)。こんな人と接触していい友達もできるかもしれないが、自分のためになるか、信用できるアドバイザーになるかは考えるべきだと思う。失敗するとメンタルヘルスの損失にもなり得る。

4)「外人の悲観的プール」を避けること

 私にとって「外人」とは、「日本のことについて何も知らなく、ひいては知らなくてもいいと信じる」外国人である。文字通りに「ソトのヒト」で、その外国人は自分が日本の住民であると思わなく、経験や冒険や経済的な理由のみで日本滞在する人である。その人はよく集めて「悲観的プール」に潜って同じ意見に浸って楽しめる。自分のストレス解消のために日本についてたくさん苦情を言う。苦情を言うのはいい(例えば、社会の改善を要求するのはたいへん建設的な活動である)が、下らなくて細かくて仕様がないことについて(例えば、「日本のTーシャーツの英語が下手で鼻持ちにならない」、「日本人歩行者は車が来なくても赤信号で待って、ロボットみたい」)愚痴をこぼすことなら無意味。かえってストレスの原因となり得って要注意。この悲観的なことばかり聞くと、今までその下らないことを気付かなかっていたのに、これから何回も見て、同じように目に余ってくると自分の意見にもなるかもしれない。すると自分の日本に関する観点は厭世観になり得る。それは無論メンタルヘルスの悪化。建設的な人と付合おう。

5)自分の「スペース」を尊重すること

 人は「独りタイム」が必要である。有名な人でも、国の大統領でも必要。時々自分に合うブレイクタイムを作るべき。私は元アメリカ人だから、リラックスするためにピザを注文したりハリウッド・ビデオを観たり登山する。たまに日本人・日本社会から逃げるべき。恥じではない。日本語及び日本社会に慣れるのは自分の言語・文化を犠牲にすることと関係がない。一番ヘルシーな人生は自分のルーツを認めて、日本の生活にある好きなことと組み合わせてブレンドすることであるので、「文化休憩」も計画しよう。

6)相手の考え方をなるべく理解しようとすること

 人と接触することは交渉に例えよう。極端に言うと、私は相手から何かがほしく、相手も私から何かがほしい。お互いに協力し合うのはコミュニケーション上である。でも、相手からのコミュニケーションが上手に伝わらなくても、自分がある程度相手の期待を予想するようになってきたら自分にとって有利であろう。だから、「交流の骨折」を防ぐためになぜ人がこうする、こう思うのかを想像・理解する必要がある。
 これくらいのスキルがあれば色々なトラブルを避けることができる。例えば、なぜある頑固な老人・沈黙する学生・リスクを背負わない公務員はこうするか、こうしないか、と。相手の立場が解ったら自分もストレスの解消になる。一番イライラするのは腑に落ちないことであろう。
 だから、聴く耳を持つ人にタイミングがいい時に、「なぜこうする、こう思う?」を相手にしっかり訪ねればいいと思う。納得できる回答は別にして、少なくとも理解しようとするのは意味がある。そして、日本語が上級に達すると、日本での色々なやり方を更に理解度が深まるであろう。

7)自分は「ゲスト」ではない、「自分の造る条件」で日本住民となること

 「ゲスト主義」の危機を前述したが、本格的に「日本は私のマイホームでもある」と意識すると、それぞれの日本におけるメンタル・チャレンジに対して自分の反応が異なってくる。つまり、自分で納得できるルール・「条件」を実施したければ、適度にクレームを付けるならば精神的に満足する時もある。
 例えば、私の場合なら、頻繁に起きるチャレンジに対しこう反応する:
 店員さんは私への反応が普通の日本人の顧客より劣る(例えば「いらっしゃいませ」を言わず、長い間に相手にしないこと、など)。なると、クレームを付ける。「私もお客さんだけど。私のお金は同じだ。」などを言う。ひどい時にマネジャーを呼ぶ。
 私は日本人みたいな人とレストランで食べる。注文を受けるウェートレスは私から注文を聞いても、彼女は日本人の顔に向って答える。なると、「私からの注文だから、私に向って相手にして」を言う。
 私は日本語で人と交わしいる。しかし、相手は「白人と、必ず英語で」との前提らしく、私の日本語に対して英語で答える。なると、はっきり「私は日本語で話しているけど。日本語で宜しく」を言う。
 ある人は違う国について大袈裟に言っている。例えば「治安のいい日本と違って外国は危ないね」、「アメリカ人は魚を食べないよね」、「稽古した和人だけ日本を理解する」など。なると、私は「必ずしもそうじゃないでしょう」を言う時もある。
 要するに、私の性格では、完全になすがままになると葛藤する。後で「あぁあ、その場で言えばよかった」との残念が残る。このストレスが溜まると、「次回いつかこういうコメントが起きるか」と心配し、起きると「また言われた」という不満、「いいから!日本人と話したくない!」との敏感の時期があった。ならば日本社会から敬遠する可能性があり、日本は住みにくくなる。
 でも、対処法として「次回何かを言うから心配いらん」ができれば安心になり得る。だから、相手の気持ちを尊重しながら、他人と接触「条件」(即ち、自分に納得ができる条件)で人と接すればいいと思う。但し、自分でこの条件を深く考えて造らなければないらないから、時間とエネルギーがかかる。でも、私の対処法の基本だが、人を逆らうこともやむを得ない場合もあると決心した。その方がヘルシーだと思う。

 「条件」の引き続きだが、どうやって自分が最も住める環境を造るのか。以降は私なりのアドバイス:

8)「パブリック」と「プライベット」のけじめを付けること

 自分が好きでやりたいことがある。(例えば、ボランティア活動、人権問題)が、周りの人から「変なことだ」との余計なことが言われ、「日本人はそういうことはしない」と言うでじゃばり屋が出る。それなら、その人が見えないようにプライベット・タイムでやった方がいい。日常的な行動を2つの範疇に別ければいい。しなければならないことは「パブリック」、したいことは「プライベット」。日本生まれの故エッドウィン・O・ライシャワー元米国大使が「日本で、『プライバシー』とは人に見られない様子」の言った通り、オフタイムでひそかにでも精神的にヘルシーな趣味をやった方がいい。公害にならなければ相手の言い分がないであろう。
 日本社会に慣れている人は「プラバベットなら自分勝手だろう」は当たり前だと思うだろうが、ゲスト主義を信じる外国人は周りの人に気を使いすぎ。国の代表だから何でも「パブリック」素行に振舞おうとする。だからこれくらい単純なことができなくてストレスが溜まって在日できかねる。

9)やりたくないことがあれば、適度に「忙しい」と言える人になること

 人と付合う上、「ちょっとお願いがあるよ」との義理人情関係が起きる。いいこともあるが、下だらないこともあり得る。例えば、自治体の催しで「国際化」や「日本と外国の比較」などのテーマで講演会を開催。自分が専門家ではないのに社会学的なスピーチが頼れた。それとも、国際交流団体には外国人のメンバーがいないので、「グループの国際さ」を正当化するために無理やり外国人を加入し、まるで「ペット外人」や「人寄せパンダ」みたいにする。私なら、もし相手は私個人の考え方を聞くために招待されたら、加入してもいいが、もし相手が「あたたが外国人みたいだからおいで」のメドだけだったら、私は「すみません、忙しくてスケジュールが空かない」と断る。長期間日本滞在の上いまさら「外人化」されたくない。

10)人間関係のやりとりでも「我田引水」を目指すこと

 人と知り合うことは一方通行ではないはず。しかし、頻繁に赤の他人も列車やパーティで「英語を練習したいから付合って」かつ「友達になって」とかは言われる。もし自分には「益」があれば(例えば、報酬、御馳走、意見交換、日本語の練習など)いいが、単なる「遊びにおいで」ならば、たいてい「なぜその人は私と付合いたいのか、私にとって何が得?」を考えてしまう。非常にドライな接し方だと認めるが、何回も意味がなくネタのない知り合いの上誰でもこうなると思う。外国人は特にこういうことを狙われ、「自分の国際化」または「体験のために」を考える人は珍しくない。相手の時間潰しは自分の時間潰しにもなるので、人に利用されたくないと決心すべき。だから、「益」をバランスするために(例えば、英会話教室の場合、授業の後生徒と日本語でも話合う。あるプロジェクトを背負うなら私の意見を公に言って人権問題も挙げる)相手の目的と自分の目的をしっかり考える。すると、自分の人生の満足感・存在感が上昇する。

11)対等に接触してもらうこと

 関西と関東以外、「外国人は珍しい」というイメージがまだあるため、外国人に対する接し方は独特になる。例えば、外国人の名前を言う時、名字「スミス」よりも下の名前「ビル」で呼び掛けることが多い。日本人同士なら深い付き合いがなければこれはマナー違反なのに。「だって、外国人を下の名前で呼び掛けるのが海外風で親しいから」とは言われるが、問題は「ビルさん」よりも「ビル」だけで呼び捨てすることがよく起きる。子供っぽく等しくない雰囲気になる。他のことにも例えられるが、言いたいのは日本語で話すなら日本の社交的ルールが効くはず。私なら、なるべく優しく「私の名字でお願い。呼び捨てしないで下さい」などのルールを実行してもらうことがある。しないと日本に益々深入りしつつある外国人は「外国人だから差がある」後味が残る。お互いに尊敬することは言葉遣いで守ることは常識である。

12)あくまでも、我を捨てないこと

 これはメンタルヘルスにとって本当に一番大切な項目だと思う。異文化に住むならもちろん、色々な妥協が必要。全部の行動は手前勝手で生きれないが、どうやって相手の気持ちの尊重と自分の価値観のバランスをとるのかはたいへん大きなチャレンジである。一方、わがままになりすぎたら社会が敬遠するが、逆に「我」を捨てるまでやりすぎたら身をもたない。
 鍵が「我」である。自分は誰だ、社会は何だ、そのインターアクションの在るべき姿は自分で考えこなすこと。問題は、その「我」が形成するのはたいてい30歳代にならないといけないであろう。でも、日本に初めて来る外国人はたいてい10歳代・20歳代だから、精神的に未熟のままで上記のチャレンジを向かえるので、無理がある。それに、日本に住むなら日本語が未達者のレベルで言語の障壁と共に、先輩の「若い人が自己主張すると生意気に見える」、原則の「郷に入れば郷に従え」、乱用できる「ニッポンのやり方」、危険な「ゲスト主義」などの現象に加えて、外国人は社会的に不安定さはまるで嵐の中で筏(イカダ)に乗っている状態であろう。
 自分の「我」を捨てるよりも、「自分が誰だ」、「我」を抱えってしっかり決めないと、メンタルヘルスのパンクしてしまうと思う。外国人は己を保全するのに自立が必要。できてから、それぞれの社会との関係について考えるゆとりができ、この異文化である社会に向き合えるのか、全部数年間を掛けて検討するべきである。


終わりに

 メンタルヘルスは軽視すべからず。体のヘルスと同じ、人は精神的にダウンすると命・人生を台無しにする。各社会に精神的異常者は居るが、たいてい人々は生気で社会と上手に接触する理由は、人々がその社会で生まれ育ちであるため。でも、外国人の場合「生まれ育ち」の有利がなくなる。その人はどうする?もし社会的に「溶け込み」のメカニズム、例えばサポート・グループ、があればどうにかはなるが、それがない社会、かえって歴史的に相違を厭いて「攘夷」もしくは「同和」を政策までにして、なおさら外国人に対するインパクト、カルチャー・ショック、チャレンジが強まる。
 よって、私個人としては、我・個人個性がタフにならないと異文化に生き残れないと思う。上記の私の手段、措置、対処法は過激的だと思われるが、こういう風にして実際に日本に容易に暮らせるようになった。暮らすのみではなく、私は自分で決めた条件で「私は日本人だ」と帰化した。ここまで決心(つまり、二重国籍を許さない日本の国籍をもらうためにアメリカ国籍を放棄した)するのは独特な自信は必要だと思う。それはがっちりした「我」による。私にとって「国籍放棄」と「我」捨てとは無関係。私はどこに住んでも、どんな国籍を持っても、「私」は「私」だと感じる。そういう気持ちのある人はどこに住んでも、異文化の中でも、メンタルヘルスを保全できると思う。

平成14年7月3日
有道 出人(あるどう でびと)

以上
14,000字

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