北海道新聞社 編集局 御中

大変お待たせいたしました。2月27日に話した通り、神戸ボラに対する印象は下記の通りです。あくまでも下書きですので、長く、短くする必要があれば是非お頼み下さい。


1月17日から兵庫県の大災難の映像を見続けていて、私の怒りがだんだん高まってきた。まず、道路や列車の制度がもろく倒れたり破壊されたりして、援助団はすぐ神戸には入れなかった。でも、政府の自衛隊の派遣が遅かったし、ヘリ等ももうまく使わなかった。また見ると、火災は広がって崩れた家の中に閉じ篭れた人が死亡者の増加となった。でも、海外からの援助、例えば消防ヘリ、救急犬さえいらないと政府があえて言い続いた。その後、神戸の悲惨のレポート-- 被災者の食べ物、飲み物、薬の不足について、そして被災者は体育館に数ヵ月篭るだろう--等は耳に入ってきて、たまらなかった。私自信、何かをしないといけないと感じて、ボランテイア組織について案内をもらうためにNHKに電話した。アガペハウスの電話番号まで連絡して、結局、神戸市のボランテイアとして行くきっかけとなった。

2月14日に妻と娘と決別し札幌を出た日だった。というわけで、兵庫県地震よりはもう一ヵ月が立ったので、ボラ者の任務は軽く危なくない仕事に治まった。現場にいるボラによると、たいてい、中央区では、電力、食べ物、飲み物のルートが決まり、バス、列車、タクシーはまた作業してるので、ライフラインになる制度は回復しつつあり、行きたい所があれば時間だけが問題だった。そして、遺体や重傷者は目の見えない所まで運ばれたので、血に弱い人も心配いらないとのこと。力をかかる仕事や、毎日市民が需要しているサービスの派遣者が必要だ。仕事があるからとにかく来て下さいとの結論を出した。私はボイスカウトのバックパックを一杯にして、敦賀行のフェリーとバスに乗り、翌日の夜、神戸中央区役所にて中央区ボランテイアに着いた。

いわれた通り、仕事がたくさん出た。毎日、要請電話が中央区ポラに直接入ってくる。「お年寄りを入浴する経験者女性4人位一週間泊り込みを求む」。「この団地まで救水車が毎日午前9時と午後2時に来ますので、6階まで運べるバッケツ リレーを行う男性12名来て欲しい」。「足の不自由の方は屋根から落ちた瓦を片付けてもらいたい」。「年金をもらうために銀行まで連れてあげる車を持っているを急募」。「平日徹夜夜警募集」。「崩れた家から引っ越し。」「お風呂人員整理、その後の掃除」。「体育館に篭った子供と遊んで気分転換を補うために『あそび隊』に来い!」。「炊き出し隊」、「水組隊」、「物資」や「くばり隊」。「毎週、救急案内パンプレットを出版し神戸市に配るので、日本語、英語、中国語、韓国語、スペイン語、ポルトガル語、計七ヵ国語の能力のあるボラは『かわら版』まで」。これが提示された中央区ボラのホワイト ボードを見ると圧倒される。

でも、すぐ私にふさわしい仕事を見つけた。毎日、日本全国から新しい50人から100人は中央区ボラに入ってくる。仕事を斡旋すること、地図を出し派遣すること、ホワイト ボード案内すること、急募に「只今手が空いている男6名!コンクールトまでピアノ引っ越し。今、派遣されたい人手を上げて!」と要請する係は人事部にあった。そこに入り、「"人事出人"(でびと)」になった。このポストで、色々な方と接触するチャンスが出来た。

「僕は美容院に勤めているが、髪切りの要請ありましたか。」と希望しているおじさん。「一週間俺がいえるから何か仕事ちょうだいよ。」とせっかちな高校生。「旦那の3日分の食事を作っておいたので、手伝いたいわ。」と目が輝いている主婦。「ワシな、お年寄りのマッサジと気功の専門家だ。周りの病院に要請あるだろうか。」とにっこりしているおじいさん。「我々は『関西大の援助団』だから、何でもいいから忙しくさせて!」と鉢合せているいい根性のある大学生6名。相手は日本語を使って案内している外人と会うのはちょっとアレッとしたが、お互いに慣れてきてスムーズに仕事を行った。

現場の被災者とも接触するために、私も毎日派遣された。児童館で毎日、20分単位、周辺の方が入り、おムツ、粉ミルク、タオル、テイッシュ、トイレット ペーパー、生理物、下着、靴下、毛布、カイロー等を一つづつを無料で取らせて、日本全国より貢献された防寒用の洋服も自由に箱に積ませて持たせた。その場、私は特にためになったと感じた。貢献された粉ミルクはネッスル インドからきたので、説明書は英語とヒンズ語で書いてあった。 私はバッと和訳してコビーしてもらって、ボラ皆と一緒にテープで缶に貼って母に配った。

その後、普通の時でも外人があんまり来ない長田区まで私は行って、破滅して店は焼け原になった被災者とも会った。男何人も集まって巻を鉄の樽に入れたたき火と毛布だけで暖まる。屋根はブルー シートに過ぎない。人生観が全く変わった。でも、私は2泊おじゃまして元気が出た。一緒に酒を飲んで関西弁で話してみて一杯楽しんだ。「遠い札幌からきて、遠い国からきて、本当に感謝する!おおきに!頑張ろう!」と心強く言ってくれた。私は皆さんの嬉しい顔を一生忘れない。

神戸から帰った日は25日だったが、本の一週間で私の日本に対するイメージがガラッと変わった。今まで、私は6年間位在日し、結構つらい経験があった。合計3年間日本の会社に勤めて、一番印象が残ったのは貿易会社の一般サラリーマンの訓練でした。それは、ビジネスマンにとって、人間関係はお金をもらう手段に過ぎない。儲けるだけに関心。金銭的に関係があれば身内にして、なければ無視。恩恵を受けるために恩恵を施す。慈善的に考えるのは時間とお金のムダ。良心的な相手がいない。ただでくれる人は必ずお返しを得るためするんだから、「ただ程高い物がない」。それは常識であるとの教訓でした。

日本の政府も同じ様に考えたと思う。素直に海外の援助を受けず、「真っ平」や「貿易につながるだろう」との気持ちを表わした。国内援助で足りるとてっきり思って兵庫県の死亡者が増えたであろう。これを見て、私は色々な人に「政府が無能だと感じるから、個人としてボラしてみませんか」とも聞き、「いやあ、日本人は会社で忙しくてボランテイアに出る社会ではない」と即答した。日本は身内じゃないと助ける気のない心が狭い国だと思ってきた。

だが、神戸の経験で皆日本人はそうじゃない!と分かって、心の底まで喜んだ。中央区ボラで会った人は皆いい根性を示した。いいことをするためにいいことをしたい。被災者の悲惨をどうしても緩和したい。冷たい弁当とおにぎりを食べて、風邪をひいて、自分のお金を出して助けにきた人はもう何千人が神戸に集まった。あるボラは国連傘下でルワンダやモザムビークにも派遣された経験があり、それとも奥尻、釧路、八戸の地震からきたばかりの人もいた。ボラ経験のない人はすぐズピリットを把握した。仕事をしにきて、仕事がなくても外に出てゴミ ステーションの整理したり水組の所のゴミを拾ったりしたやる気を初めて見た。私の貢献一週間だけで、今まで会った日本人としては、中央区ボラの方々が一番いい仲間になって、人柄が一番有望だったと感じた。一緒に働くのは私の名誉だ。

この兵庫県の悲惨に生まれて、慈善的に考えるボランテイア スピリットを持つ日本人はこの社会でよく広がる波紋になると思う。   

以上


平成7年3月1日 アルドウインクル デビッド


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