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差別的任用制度は合理的
鄭 香均(ちょん ひゃん ぎゅん)著
(05年5月9日公開)
私は1986年保健師の国籍条項が撤廃されたことを知り、1988年東京都の保健所で働くことを希望し、日本人と同じ試験を受け同じく働いています。就職時や就職後も外国籍者は労働条件が違うという説明はありませんでした。それがある日突然、「どこにも書かれていないし、説明の必要もないが、日本人なら誰でも知っている『当然の法理』があるので、あなたは管理職試験は受けられません。管理職試験を受けようとする人がそんなことも知らないのか」と言われたのです。「当然の法理」という漠然とした曖昧な行政見解で、日本国籍を有していないからというだけで労働条件が異なり、管理職になりたい又はなりたくないという意思表示すらできないということは差別であり、許されることではないという想いから1994年提訴しました。
「当然の法理」の原型は1948年、「日本国籍を有しないものは日本政府の警察官や臨時職員になることができるのか」という照会に対しての兼子回答といわれるものです。内容は「公の権力の行使を担当する官吏となる権利はその国民のみの専有する権利である。その理由は1)国家から公権力の行使を委ねられるものであるから充分信頼し得るもの、2)国家に対して忠誠を誓い一身を捧げ無定量の義務に服し得るもの、3)他国民を自国の官吏に任命することは忠誠義務に関し、その者の属する国家の対人主権を侵すおそれがある、4)その国の民情風俗に通暁することなど」というものです。これを受けて1953年、内閣法制局高辻回答「法の明文規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員になるためには日本国籍を必要と解すべきであり、他方においてそれ以外の公務員になるためには日本国籍を必要としないものと解される。」が一般的政府見解とされているのです。これは時代をみれば分かるように戦後直後に在日朝鮮人・台湾人排除を目的としたものです。日本国籍がなければ公務員に就任できないという法律上の制限は公職選挙法10条と憲法67条及び外務公務員7条があります。法律で規制されているものには当然のように就くことができない、そして法律で規制がないものも、「当然の法理」で就職できない、ということです。
私が今回の裁判で提起したかったことは、このような「当然の法理」そのものが法治主義違反ではないかということです。少なくとも排除の理由である「公権力の行使」「公の意思の形成」とは何かという中心課題に焦点をあて、外国籍者が就くことができる又はできない範囲を国家公務員と地方公務員に分けて明確にすることが求められていた筈です。
今回の最高裁判決では、外国籍者職員にも労働基準法3条、112条、地方公務員法58条3項が適用される。しかし、東京都は一体的な管理職の任用制度を設けており、管理職昇任の条件として日本国籍を必要とするのは合理的理由がある。合理的理由による日本国民と異なる取り扱いは許され憲法14条1項に違反しない、としました。これは1978年のマクリーン判決を彷彿とさせます。マクリーンさんの在留期間中の政治活動は憲法上保障されている。しかし、外国人の在留の許否は法務大臣の裁量に委ねられており、政治活動を理由に在留期間の更新を不許可にすることは許されるという判決でした。私たちは、今回裁判を起こすに当たって一つの希望を持っていました。それは外国籍者ががんじがらめにされている出入国管理法と闘うのではなく、どこにも書かれていない空気のように存在する「当然の法理」が相手なので、憲法違反をストレートに導くことになると。そして高裁判決はその通りになり、管理職選考の受験の機会を奪うことは外国籍職員が管理職に昇任する道を一律に閉ざすもので、法の下の平等(14条)と職業選択の自由を定めた憲法(22条)に違反すると判断をしたのです。日本において、初めて外国籍者が基本的人権を明確に獲得した瞬間でした。
しかし、最高裁の判決ははじめての憲法判断でありながら、枕ことばとしては外国籍者にも基本的人権の保障は及ぶと言いつつ、実質的な制限の範囲は行政の裁量にすべてを丸投げしてしまいました。外国人の基本的人権は法務大臣の裁量の範囲内、あるいは地方自治体の裁量の範囲内ということです。行政の裁量によって制限されてしまう基本的人権とは何なのでしょうか? 憲法の理念を台無しにするような入管法から憲法を解釈したり、自治体の差別的任用制度から憲法を解釈する。この国における法体系では、憲法は最下位に位置されているのが現実であり、日本は外見だけの立憲主義国家なのだと考えると今回の情けない判決を「納得」できます。
「小樽温泉入浴拒否問題と人種差別」を闘っているある有道出人(あるどう でびと)さんは地裁・高裁判決で勝訴していますが、その勝訴理由は「外国人一律入浴拒否の方法によってなされた本件入浴拒否は、不合理な差別であって、社会的に許容しうる限度を超えているものといえるから、違法であって不法行為にあたる」というものでした。これに対して有道出人さんは「まるで合理的な差別であれば社会は許容できるといったニュアンスだ。合理的な差別の定義は判決ではなされず、社会的に許容できる差別とは何か?その限度、境界線はどこにあるのか、どうやって境界線を引き、これは差別のやりすぎであると裁くのか?」と鋭く指摘し、「どういう行為が人種差別にあたるのか法律で定め、周知させることが必要である」として最高裁に上告しています。また欧米の主要国での状況を調査した九州産業大学の近藤敦さんが最高裁に答弁書として提出した資料によると、定住外国人の公務就任権に関して1)一般に国籍要件を緩和する傾向にある。2)また外国人の公務就任権を制限する場合にも、日本における「当然の法理」のような曖昧かつ包括的な制約基準による制限はしていない。3)さらに憲法上の国民主権原理だけを根拠に、法令の根拠なしに外国人の公務主任権を否認することも、欧米の主要国においては認められない。としています。これが近代立憲主義国家のあり方ではないでしょうか。
戦後60年間「当然の法理」という言葉によって差別を正当化しながら、糾弾されると「公務員に関する基本原則」と言い直したり、今度は「公権力行使等地方公務員」という造語で逃げる。しかも東京都の任用制度では管理職のなかに「公権力行使等地方公務員に当たらないものも若干存在していたとしても違法ではない」としたのです。これは始めに結論ありきの作文です。私たちの脳には善悪の二項対立が刷り込まれています。司法は正義を行うという幻想があり、社会に善悪の規範を示すかの如く存在しています。少子化、高齢化、ひきこもりの若者、ニートと、この国を支えるのはもはや日本国籍者だけでは困難な時代を迎えるに当たって、日本の司法は、外国人を差別して当然と言い放ち、「日本国民」に対して差別しても良いという免罪符を出したのです。
また今回の判決では、植民地支配を隠蔽し、その責任を放擲しました。1952年4月28日午後10時30分、突然一夜にして難民(無国籍の外国人)にされた結果として誕生した旧植民地出身者である在日朝鮮人を在留外国人とし、またもやその存在の歴史を抹殺したのです。「当然の法理」は、戦後新たに作られた朝鮮人への多くの蛮行の中の一つなのです。だからこそ憲法の前文の主題である侵略戦争と植民地支配の否定、反省こそが今後の日本のあり方の出発点であり、今回の判決はそのチャンスだった筈です。選挙権もなく、何の力も持たない弱い者が日本国家に翻弄され続け、追いつめられ、それでも屈服することを拒否し、最後に残された裁判。それは国籍を超え人間としての道義性を賭けた裁判だったといえます。その意味で敗北をしたのは最高裁の13人の裁判官達です。日本における外国人の政策は朝鮮人を抑圧し、日常的に監視、弾圧、追放するという朝鮮人管理政策としてのみ機能してきました。現在、外国人登録者が192万弱おり出身国籍は198カ国になりますが、その対象が広がろうと、外国人政策の本質は変わっていません。戦後人類が学び取った共通の認識である植民地支配の否定と個人の尊重を、カイロ宣言、ポツダム宣言、サンフランシスコ平和条約を日本は受け入れながら、未だに頬被り状態です。日本においては植民地支配の制度は過去の一時代のものではなく、侵略戦争や植民地支配を可能にした制度、イデオロギー、文化、心性が戦後60年の熟成期間を経て日本国内でしっかり根を張り巡らし、外国人労働者や難民、私たち在日に未だに及んでいるのです。単純労働者は受け入れていないとしながら多くの単純労働者によって利潤を享受しています。その存在を積極的に合法化しようとせず、外国人労働者ではなく不法滞在者のレッテルを貼ることによって、権利をすべて剥奪し、搾取するのに都合の良い存在にさせているのです。これはかつて一方的に国籍を剥奪された私たち在日の存在とあまりにも同じです。外国人労働者の非合法化は隠れた現在の奴隷であり、植民地化政策といえます。外国人とは、「我が国以外の国家に帰属し、その国家との間でその国民としての権利義務を有する」者であると判決は述べていますが、私は国籍国である韓国に権利義務は持っていません。憲法の「すべての国民は」という条文で始まる権利については、基本的人権すら保証されず、「すべての国民は」で始まる義務のみを負わされているのです。権利なくして義務だけがある状態とは奴隷を指します。
日本の「国民」と思っていらっしゃる方々は、外国人のこの様な無権利状態を知り自分たち「国民」は国家によって権利を与えられ、守られていると思っていませんか?錯覚させられていることに気づきませんか?他民族差別は国民国家形成のために不可欠なものなのです。国家から与えられる権利と一体になっているのは忠誠義務です。日本は「国民」の中に天皇も含まれる国民主権国家です。今それをはっきりさせようとしているのが組織的犯罪対策法から始まり国旗国歌法を契機とした日の丸君が代の強制等の一連の改憲の動きではないでしょうか。管理社会と言われ初めていますが「管理」が法律で人間に向けられているのは外国人を対象とした外登法と入管法の2本だけです。それがついに日本国民をも対象とし始めたのです。
今回の判決では、広範な公務員が自分の国籍に応じてその職務遂行のあり方を変える裁量権を持っているという考え方が前提となります。となれば、日本国籍の市民も、行政、公務員のこの広範な裁量権のもとに従属していることになります。実は、今回の判決は外国籍者の人権を否定しただけではなく、日本国籍者の人権に対しても行政裁量の優位性を宣言したものです。法の支配、立憲主義が未成立であることを明らかにした今回の判決の意味を、国籍にかかわらずすべての日本の市民が見据える必要があります。
この日本の地に生活し、日本の構成員である定住外国人と市民社会という枠組みを構築し、解放された1市民として、国家権力を制限していく力である主権在民の実感が持てるようになるための闘いを、皆さんとともに創っていきたいと新たに決意しています。
以上