外国人排斥温泉「湯の花」と小樽市を相手取る訴訟
2002年3月11日
原告の尋問サイト
(訴訟の経緯、総合案内サイトはここです)
2002年3月11日、午後1時30分から3時37分まで札幌地裁にて、原告らカートハウス・オラフ、サザランド・ケネス、と有道 出人の尋問と反対尋問が行われました。
このサイトはその出来事をお知らせします。
尋ねられたことは我々の同日付けの陳述書とほぼ同じ通りです。尋問は以降にあります。法廷にあった大ざっぱやりとり(反対尋問も含めて)はここです。(英字のみ、すみません)
有道 出人の陳述書
2002年3月11日付
(English Translation)
私は、外国人排斥事件の当事者として次のとおり申し述べます。
1.私は、原告の温泉「湯の花」(以降「湯の花」)から入浴を断わられた1999年9月以前、日本に満10年間住みました。その間、色々な国籍による差別待遇を受けたことがあります。ふとんで寝られないかもしれないという理由で民宿に泊まることを断われたり、「ノーペット・ノー外人」と言うアパートの持ち主に入居を断われたり、レストランや店に入場を断われたりされたこともありました。私は日本の会社に勤めていたころ、イジメに遭って辞めたこともあります。ですから、湯の花で受けた外国人に対する差別は私が永年経験したことと連動していると感じてきました。
2.中でも、湯の花の待遇は特別でした。
私にとって特に不快なのは、「ロシア人がトラブルを起して、ロシア人と外国人を見分けることが出来ないので、やむを得ず一律外国人をお断りするようになった。」という断りの理由でした。
湯の花の件については、インターネットで初めて知りましたが、あきれて信じられなかったのです。人を個人として見ず、トラブルを起した人がロシア人の船員にもかかわらず、全ての外国人にまでその影響を及ぼすという考え方がどれくらい危ない発想であるか、どんなに社会的なダメージを与えるか、湯の花は自覚していないと思いましたが、又聞きに頼るのはいけないと思ったので、本当にそうであるのか半信半疑で1999年9月19日、友人の家族と一緒に入浴しに行きました。
我々が家族と一緒に行ったのは、家族と一緒に入浴したかったのと、もう一つは「我々は永年日本に定住し、日本人と一緒に家族づくりしたものであり、トラブルを起した短期間の来日船員とは違う」ということを伝えたかったからです。でも、私と原告カートハウス氏ともう一人の白人アメリカ人だけが入浴拒否されました。もちろん、これはショックでしたが、さらに、ショックとなったのは我々と一緒に来た中国の女性に対する待遇でした。その中国人女性は入場可となりました。これで湯の花は外見だけで人を選別をしていることが明らかになりました。
そこで、妻は将来について考えました。私たちの娘2人はどうなるか。「日本人みたいな娘は入ってもいいが、外人みたいな娘(茶髪で青目)はお断りします。」と言われるだろう。同じ親から生まれた娘2人を見て、ママ似またはパパ似のみの外見で選別して、入場許可を与える訳です。人種がコンビしている家族の娘にとって国籍による差別ではなく、人種による差別だと痛感しました。
湯の花は一瞬でも親の気持ちを考えて欲しいのです。自分の子供が外見だけで断わられると、親として放置できると思いますか。断わられる理由が親からもらった遺伝子によって、生れ付きの仕方のない外見によって社会で頻繁に利用する入浴施設が利用できないとなるならば、自分の遺伝子により子供が侵されたように心が痛くなります。どれくらい当事者の精神に苦痛として響くのか、どれくらい人生に制限を与えるか、を考えられますか。極端に言うと、子供たちは日本で生まれ、日本で育ち、日本国籍を持っているのに、「なぜ私を生んだの?お父さんからもらった外見が邪魔。日本人から仲間外れになる」と考えるのではないかと心配します。自分のアイデンテティを否定する可能性があると思うのです。
1999年9月19日の出来事は、湯の花が日本に住む異人種の親と子に対し、将来にわたる暗澹たる想い、非人間的な侮辱を与えられたことを思って悩みました。
3.ところが、もっと調べると、湯の花が氷山の一角であることが分かりました。外国人を断っているところは湯の花のみではありませんでした。他の温泉(小樽市内のオスパ、パノラマ)も、他の業界(タクシー、アパマン、調髪屋、スポーツ店)、他の町(稚内市の温泉「湯らん泉」、紋別市の「はまなす商店街」、根室市の温泉「曙」、大滝村の温泉「カワセミ」)も「外国人お断り」がありました。稚内の「湯らん泉」の支配人は外国人を排斥することを正当化するために「小樽も同じことをしてるんだ」と述べました。
この差別問題は他の地方へも拡大しつつあると感じて、私たちと子供の社会的施設へのアクセスがどんどん狭くなっていくように感じました。どこかで歯止めをしないといけないと思いました。
4.強調したいことがあります。本件裁判になる前に、私たちはこの差別を何とかしたいと思い、15ヶ月かけて色々な社会的アピールをしました。何回も温泉側と話しました。地方まで行って紋別市と稚内市、それぞれの店鋪の支配人と話し合って、お互いに人間性のある解決を探ろうとしました。その結果、相互理解も深まりました。ある温泉と店は排斥する看板を外しました。外国人または外見は外国人みたいな人も人間である、住民である、納税もしており社会的貢献者であると認識してもらったのです。意識変革がありました。オスパの支配人は私の個人的な友達になりました。災いを転じて福を成したわけです。法廷まで持ち込むのは最終手段でした。
5.しかし、湯の花は一切妥協の姿勢を示しませんでした。2回も(小樽商科大学、小樽道新主宰)市、温泉、当事者の討論会があったものの、湯の花は欠席しました。小樽市が作ったルールなどを掲示したり、「ホットライン」に参加すること、問題を緩和するためのいづれの措置をとることも断ったのは湯の花だけでした。一番不快な断り方も湯の花でした。
例えば、湯の花はロシア語と英語を話せるスタッフを雇用しました。ルールを説明するためではなく、外国人を断るためでした。しかも、世論がうるさくなると「JAPANESE
ONLY」の看板を外して、一年間以上日本語のみで「検討中」の看板を掲げました。2000年10月31日、私は帰化して日本人として湯の花を訪れ、日本の国籍の証明を見せても、入場を断りました。これは、人種による差別だと感じました。いくら頑張って立場を説明しても、湯の花だけはどうにもならないと痛感し、絶望と不満が高まりました。
6.2001年1月16日、マスコミで湯の花が裁判に訴えられるのが表面化した当日、湯の花はようやく看板を下ろしました。ところが、代わりに新しい独断的な条件(滞在期間、日本語理解度、日本入浴マナー理解度、マナー遵法意志)を外国人だけに課しました。差別行為の交代だと思いました。本当に湯の花が深く反省した結果ではないと感じました。そして、本件提訴となりました。
7.次に、なぜ小樽市も被告にしたのかを説明したいと思います。
或る人は、小樽市が色々な措置をとったではないかと反論しています。ある程度そうとは言えますが、7年間も問題を放置した上、マスコミに報道された時のみ対策をとろうとしたり、とった措置が不充分だったには変わりません。
被告小樽市は証拠として、市民、住民、観光者または訪問者からもらった入浴排斥問題に対する不服の手紙と、市からの返事を裁判所に提出しました。小樽市はこれを差別問題に対して何かをした証拠にしています。しかし、逆だと思います。この手紙は人の痛みの表れです。不当な待遇を受けた人が数時間かけて手紙にするのは深い傷の結果です。それにもかかわらず、小樽市は「民間会社だから仕方がない、外国人可の他の所へ行って下さい」の一点張りです。このような返答によって相手は安心したと思いますか。いいえ。1994年から1999年秋まで、小樽市はそうやってお茶を濁して問題を放置しました。小樽市は外国人の住民、観光客または訪問者からお金を得ているのに、その人々の痛みをなくするための実効性のある措置は結局とりませんでした。
そして、1999年9月21日以降、マスコミで取り上げられてから、この時だけやっと小樽市が動きました。国際交流関連団体連絡会議を2回開催し、言語障壁を緩和する措置(露英邦語で書いたルールを掲載し、免税店などで入浴マナーを説明するチラシの配付)をとりました。いわゆる24時間「ホットライン」も設けました。
しかし、結局これはアリバイ的な措置だったと感じざるを得ません。この連絡会議は外国人を加えず(2回とも出席却下)、国際交流担当者が約束した3回目の外国人も出席可能な会議は、結局、キャンセルしました。ロシア人が毎年約3万人訪れるのに、小樽市はロシア語での入浴マナー・チラシを4千枚しか作りませんでした。しかも一回配布しただけです。また、「ホットライン」は、温泉(オスパとパノラマ)だけが利用でき、外国人の居住者には開かれておらず、一般にも公開されませんでした。ホットラインとは、実際は国際交流担当者2名の携帯電話の番号を入浴施設に知らせたに過ぎなかったのです。
また、小樽市はずっと「市民、温泉、外国人、市」が出席するフォーラムの開催を断り続けました。2000年8月に「人権問題懇話会(仮称)」を開催すると公約しましたが、それも棚上げのままです。
小樽市の消極的姿勢については、排斥していた温泉の支配人さえ怒っています。オスパの支配人は「一年以上、市から連絡は全くなく、問題無視状態」と憤慨しています。
2002年1月、数年ぶりに小樽市が観光客(住民のためではない)のためのロシア語の案内ブックを発行しました。「国際都市小樽市」はまだまだ国際意識が乏しいといっても過言ではないと思います。
市当局は「ルールに従ってやってきた。市は何も悪いことをしていない。」主義です。ルールによる行政の限界を言うだけでなく、ルールを変えることもできる筈です。小樽市は差別撤廃条例を議決できます。
外国人排斥問題のアナ・ポルツ訴訟が起こった浜松市の市長さえ外国人に対する行政改善を宣言した「浜松宣言」を2001年10月に発行しました。
小樽市は前向きの姿勢を示してません。かえって、我々が小樽市議会に提出した差別撤廃条例については定例会で継続審査中として棚上げされたままで、小樽市は放置しています。小樽市は、毎年数億円の国際貿易収支があるのに、外国人との友好的な付き合いのための努力を払っていません。我々は何回も小樽市と話し合いましたが、誠意をもって本格的にこの問題に取り組もうとはしませんでした。小樽市が道内では「看板で人種差別した」とされる起点の市なのに、無責任だと思います。
8.最後に、一番絶望していることを申し上げたいと思います。それは、「ロスト・チャンス」(やり損なった機会)です。日本の中で温泉や公衆浴場は格別な所だと思います。温泉では、人は皆本当にリラックスできます。温泉では、人はネクタイ無しで裸足でゴロゴロできるし、ここだけは女性が平気で素顔で現れます。国籍を超えて人と人が裸の付合いができる場所です。しかし、トラブルに悩んだ温泉側が外国人の排斥主義をとり、小樽市がそれを放置していたため、日本人と外国人が裸の付き合いをする機会を失わせました。
結局、日本にとっても小樽にとっても非常に大きな社会的ダメージが生じたと思います。
日本に住む様々な人種の人たち、それらの子供たちが、国籍や外見を問わず住みやすい社会を築いていくために、良識ある判決を祈っています。
以 上
カートハウス・オラフの陳述書
2002年3月11日付
(English Translation)
1.1999年9月19日湯の花で起ったこと
私たちは、当日、「湯の花」の駐車場に着き、私の妻由希と娘達結実カタリーナと多美マリアがまず初めに建物に入り自動販売機で入浴券を購入した。私も息子ダニエル辰朗と建物に入ろうとしたが、その時入り口に「Japanese
only」と赤書きされた看板を見た。玄関で靴を脱いでいると、従業員が来て「すみませんが、お客さんは入れないことになっています」と言った。私がその理由を尋ねると、「ロシア人の船員が騒いで問題を起こすので、この方針を取っている」とのこと。「私達はロシア人の船員ではないし、妻や子供達と連れ立ってきているのだ」と反論した。その間、娘達はロビーに上がり、喜び勇んで服を脱ぎ今にも女湯へ入って行こうというところだった。私と連れの有道氏が入浴を断られたので、私は妻や娘達に戻って来るよう言った。そこへ湯の花のマネージャーも来て、議論が始まったがそれは全く噛み合わないものだった。マネージャーもロシア人船員の話を持ち出すので、私達は「我々はロシア船員ではない」と言うと彼等の言い分はこうであった。「私達はロシア人と他の外国人を見分けることができないし、ロシア人だけを断れば人種差別になるだろうから、全ての外国人を断ることに決めた。」その時私達の内の誰かが言った。「では、今何の問題もなく入館した中国人女性の友人はどうなるのか。」マネージャーは「外国人はだめです。」と答えた。
息子ダニエルが病気で長時間立っていられなくなって以来、彼はほとんどいつも私が抱っこするようになっていた。湯の花の従業員は私が日本人の男の子を抱っこして入ってきたのを見ているはずである。と言うことは、マネージャーはこの9才の日本人の男の子をも拒絶したことになる。小3の彼は母親と女風呂に入る勇気はなかったし、父親なしで男風呂に一人で入ることも不可能であった。なぜなら、彼は右半身の麻痺のため脱ぎ着は容易ではなかったし、浴場で滑って怪我をするか、溺れてしまう可能性も大きかったからである。
そういうわけで、外国人の私だけでなく、日本人である私の息子も間違いなくここで入浴を拒否されたわけである。
私達は日本に長く住んでいて、日本語が分かり、日本の習慣も良く理解していること、家族連れであり危険行為をするわけがないこと等、15分ほど訴えたが事態は変わらず、結局入館を諦めチケットを払い戻してもらった。
外に出た時、従業員が来て、どこか他の浴場へ行ったらどうかと提案した。私が「でも例えばマイカルの入浴施設なんかは高いから...」と答えると、調べてくると言って館内に入り、その後出てきて「マイカルの施設は外国人を受け入れている。」と答えた。しかし、料金のことには触れなかった。湯の花に入れないことで私の子供達はがっかりしていたので、私達はマイカルに行き高いお金を払ってそこの入浴施設に入った。
2.人種と国籍の問題
湯の花の従業員が入館者の国籍をいちいちチェックしているわけではないだろう。実際、”外人っぽい”外見の人たちが入館を拒否されている間、日本人のように見える中国人女性は何の咎めもなく入館できたのだから。故にこれは国籍の問題ではなく人種の問題、則ち人種差別である。
@ なぜ私達は看板があるのを知りつつも入館しようとしたか
日本という国は多くのことを話し合いによって解決できる国であると思う。
例えば、二人のドイツ人が日本国内を自転車旅行した時のこと。成田に着陸し自転車を組み立てた二人は大阪までサイクリングをした。彼等はリンクタウンから関西空港までJRに乗ろうとしたが、JRの規則では自転車を車内に持ち込むには専用の袋に入れなければならない。関空発の彼等の飛行機はあと数時間で出発することになっているし、その自転車袋を買う手立てもなかった。結局、この二人は車掌さんとの話し合いによって、規則には反しているが、自転車を袋なしで車内に持ち込み関西空港に行くことを許されたのである。
この例は全く異なった状況の話ではあるが(JRの場合、袋に入れてない自転車持ち込みを禁止する規則があるが、外国人の入浴を禁止する政府や自治体の法令は存在しない)、話し合いによって問題は解決したのである。
同様に、湯の花のことでも、話し合えば自分達が彼等の営業に何の害も与えないことを分かってもらえると楽観的に考えていた。ただ冷やかしで行ったのではないことは、私達の妻や子供達が既にチケットを購入していたことからも明らかである。入館を拒否されなかったなら、私達は喜んで入浴したことだろう。
A 子供達への影響
家族や友達との楽しいイベントになるはずだったこの日は、この入浴拒否によって、子供達にとっても大変悲しい一日になった。それ以来私が小樽に行く度に、子供達は「パパ、気をつけて。また断られるかもしれないよ」と言い添えるのだった。
ちなみに、この体験は私の子供達にとってほとんど唯一の差別体験であった。長く日本で暮らし、日本の幼稚園や学校へ通い日本人の友達と過ごし、幸せな”ただの子供”として生活してきた彼等にとってこのことは言い様もないショックであった。こんなことが子供達の上に二度と起らないような法律が敷かれるよう強く願っている。
3.湯の花に抱いていた期待
私の一番の願いは1999年9月に入浴させてもらうことだったが、そうはならなかった。私の次の願いは入浴拒否の問題が話し合いによって解決されることだった。しかし、それもかなわなかった。私たちは一年以上にわたり永住者として日本の入浴習慣を熟知していること、自分が彼等の営業に害を与えないことなどを訴え続けてきた。
しかし、湯の花は彼等の差別的な方針を変えず、何の進展も見られなかった。また私は、湯の花のマネージャーやオーナーが現れて彼等の取った行動を必ず謝罪するだろうと思っていた。しかし、息子ダニエルはその謝罪の言葉を聞くこともなく、2000年8月に亡くなった。湯の花が問題を改善し、謝罪する気があったならばそのために一年もの時間があったのである。それが何らなされなかったことを大変悲しく思う。
私が湯の花と小樽市を訴えることになった理由は、ダニエルの死がすべての交渉のプロセスを飲み込んでしまったことによる。
1999年9月以来、私達は湯の花と小樽市にコンタクトを取ってきた。その間進展を見たのは他の二つの入浴施設が「外国人お断り」の看板を取り下げたことだけで、一番の問題<湯の花が方針を変えること>の解決はまったくなかった。それでも私は待ち、話し合いを続ける用意であった。しかしダニエルの死ですべてが突然終わってしまった。そして、この時はっきり分かったのは、湯の花や小樽市に対する期待はもう持てないということだった。これは私にとって非常なショックで、今でもこのことで心が傷つけられている。不毛な話し合いで時間を失う前に、もう裁判に訴えるしかないと判断したのである。
4.小樽市に対する私の期待
札幌の西区に住んでいる私達にとって小樽は魅力ある街である。車で30分で行けて、海があり、古い街並みやおいしいレストランがあり、私達の所にゲストが来ると、それが本州からでも外国のお客さんであっても、私達はいつも喜んでゲストを連れて小樽に行った。その小樽で、湯の花のような、外国人を排除しようとする店が堂々と営業をしているという事実は本当に私達を落胆させた。
この事件の直後、私の妻は小樽市長宛に手紙を書いたが、その返事は型通りでやる気のないものであり、私達は大いに失望した。そして、この失望感を訴える場所はもう他にはなかった。温泉組合も警察も法務局人権擁護部も助けにはならなかった。私は小樽市が地方自治体として、この不等な差別を止めさせてくれるものと思っていた。
しかし、小樽市の取った行動は中途半端でおざなりなものだった。
私たちの人権が犯されようとしている時、自治体が全く守ってくれないということに私は非常な心細さを覚えた。温泉に入れないことなど大したことではないという声もある。では、もっとひどい人種差別が起るまで私たちは訴えるのを待つベきなのだろうか。
「ロシア人船員は万引きする」という偏見がひいては「外国人の買い物お断り」になり、「ロシア人船員は医療費を払わない」という偏見がひいては「外国人の診療お断り」になっていくだろう。そうなる前に私は事態を変えなくてはならない、特に次の世代の子供たちのために。他に効果的な方法がない今、悲しい気持ちで共に裁判に訴えることにしたのである。
5.2001年5月名寄であった出来事
昨年5月の連休中私は旭川から名寄までサイクリングをした。その日はまだ肌寒く私は早々にどこかに宿を取る必要があった。名寄駅で「ピヤシリ温泉」の広告を見つけた私は早速そのホテルに電話をかけ部屋があるかどうか聞いた。全て日本語でやりとりし、部屋はあるとのことだった。こちらの名前を聞かれた時一瞬また断られるのではないかという恐れが頭を巡った。小樽で拒絶されたことが未だに私に影響を与え続けているのである。今回は何の問題もなく予約が取れ、その晩はゆっくり温泉に浸かった。
しかし、自分の人種の故に、私がいつまたどこかで拒絶されるか分からないという不安感がいつも私に付きまとっている。
6.最後に
私は、普通の日本人と変わりなく、一市民として日常生活を送っている。私は大学で化学を教え、この社会のために働き税金も納めている。また私の行っている研究の成果は日本の科学と技術の発展のために役立つと信じている。
私に期待されていることを日本の社会で成し遂げたい。そして、日本社会の一員として尊重されることが私の願いなのである。
以 上
サザランド・ケネスの陳述書
2002年3月11日付
(English Translation)
1.私には、小樽市の老人ホームに住んでいる年配の友人がいます。腰に痛みがあるために、外出が難しい彼に会うために、現在までの7年間、私は毎月一回ずつ小樽を訪ねています。私にとって、小樽はとてもなじみの深いところなのです。
1999年春、妻と一緒に、その友達と会った後、鰊御殿を見学して私たちが好きな温泉に入っていこうと考えました。そのとき初めて、「湯の花」という温泉があることを認識しました。しかし、そのときは「湯の花」ではなく、オスパに入っていこうと思ったのですが、オスパで入場を拒否されました。非常に驚くと同時に、心に深く傷つくものがありました。
2.1999年の夏7月に、一人で「赤岩」登山をしてから家に帰る途中で、「湯の花」に入っていこうと思ったのですが、「Japanese
Only」という看板を見て、その時はあきらめました。国際都市小樽でこんなことがまかり通っていることに、とてもショックを感じました。
3.1999年の秋、出人さんとオラフさんが小樽の温泉が外国人を受け入れないことについて運動を始めました。私はその運動でこの外国人拒否の問題は解決すると思っていたのですが、他の温泉が歩(あゆ)みよる中、「湯の花」についてだけはぜんぜん前に進むことができませんでした。私自身、「湯の花」から入浴拒否されたこともあるので、とても腹が立ちました。
4.2000年の12月23日、もう一度「湯の花」へいきました。「湯の花」に行き、拒否されたら証拠にしようと思っておりました。チケットを買おうとしていたところ、従業員が、「すみません、外国人は断ります」と言いました。理由を聞きましたら、「そういう決まりです」とだけ答えました。そして、私は料金を返されたのです。
5.私は日本に住んで、もう12年になります。その間、日本語や日本のマナーを覚えるように、私なりに努力してきたつもりです。ですから、温泉に入るのを断られた時には本当に失望してしまいました。私が、どんなに温泉入浴のマナーを守ったとしても、結局、私が「外人」だから断られてしまいます。
6.私はアウトドアが趣味です。北海道の素晴らしい大自然を楽しむことが好きです。ですから、登山やスキーの帰り道などに北海道内のほとんどの地方の温泉に入ったことがあります。が、他の町では、温泉に入ることについて一回も問題はありませんでした。
7.この裁判が始まってから一年になります。その間いろいろの人の意見を聞きました。賛同の意見も反対の意見もありました。反対意見の方は日本人だけではなく、外国人もいました。例えば、「外国人は温泉で石鹸のついた体で湯船に入る、女性従業員にハレンチ行為をする、備品を盗む、外国人は黙って家のお風呂に入っていたらいいだろう、たちの悪いロシア人が多いんだから。」という声がありました。
また、「温泉のオーナーは客商売をやっていてお客さんで飯食ってるんです、生活がかかっているんだ。商売している。」とか、「あんたたちは、裁判ざたにしてこの問題を大げさにしている。」とか、「札幌に住んでいるのに、わざわざ小樽まで出かけていってトラブルを起こすな。」とか
「今まで欧米人まあ白人はずっといじめる立場だったんでしょ。
アメリカとかドイツは人種差別が一番ひどい。
この事件を通してアメリカ合衆国やヨーロッパの国々における
人種差別について本当にアメリカ人として、何か行動しろ。」
というような意見が届きました。
8.2001年11月11日以下のメールが届きました。
お前の主張には閉口した。
第一に差別が最も激しい国の国民のお前がそのような主張をするのは図々しいにもほどがあるというものだろう。
まずはお前の国の差別を全てなくす努力をお前自身がしてからあのような主張はすべきものだ。だいたい外人は外人である以上、日本国の秩序や文化について云々言える立場にない。しかし、白人の傍若無人ぶりは目に余る。とりわけ米国人は。恥を知らないのだろうか?
少しは立場をわきまえろ。
お前たちは自分たちの価値観を絶対的不可侵普遍的なものと信じ込み、それを他人に押し付けてくる。迷惑甚だしい。
NYのテロも納得できるというものだ。
偽善者アメリカはグローバリズム(まやかし。アメリカ化に他ならない)の名の下に他の文化を破壊しているのだ。
これをやめなければ第二のテロを生むことになるだろう。
反省しろ!
そして訴訟好きなアメリカ人よ、日本の司法制度を悪用するな!
日本人を冒涜したこと(=温泉に入れなかったことぐらいで文句を言ったこと)を謝罪しろ!
そして訴えを取り下げるか請求を放棄して即刻祖国へ帰れ!!!!!!
PS「私たちもマナーを守ります」だと?笑わせるな!
貴様が守っても外人はほかのやつらが守らないだろう。
9.そして、3日間後、New YorkのQueensでAmerican Airlines 578号の事項、 以下のメールは届きました。
またアメリカでテロのようだね。
私の警告がこんな早くも起こるとは私自身びっくりしている。
それほどアメリカ人は嫌われているのだよ。
お前らが「日本人」だと?
笑わせるな!
日本人ならば、あんな馬鹿げた訴訟はやらない。
心が広いからな。
お前らは訴訟という本来神聖な制度で金儲けし、自分の意見は相手の立場などお構いなしで正義の名の下に何が何でも通そうとする典型的なアメリカ人だ。
結局お前らは訴訟を提起することによって日本の社会秩序を乱しているだけで日本人は誰にもお前らに同情しない。
外人はマナー悪いし、よく凶悪犯罪も犯す。
今では外人見れば、犯罪者の推定が働く。
特に米兵、ムスリム、中国人、フィリピン人、南米人、ロシア人(全て民族学的に下等なようだ)。
もし、外人お断りの店を禁止した場合、こういう連中の犯罪から
神聖な日本人の生命身体財産を守れる保証がお前らにはあるのか?
ないだろうな。
とすれば、日本人の差別する自由の方が外人の差別されない権利より価値が高いといえる。
正直言って、異人種と同じ風呂につかるのはいやだ。
アメリカも戦時中日系人を収容所に入れるというとんでもない暴挙に出たのだから、
日本での差別ぐらい甘受しろよ。
風呂を拒絶されたぐらいで女みたいにがたがた言うなよ。
とっとと日本から消えうせろ!!!!!
今日本では排外主義が胎動しつつある。
欧米のように移民の大量受け入れなどという愚挙に政府が出た場合、排外主義は爆発するだろう。
そうなったときに真っ先に排撃されるのはお前たちアメリカ人だろう。
なぜなら、アメリカは日本を締め上げて真珠湾を攻撃させて、原爆を落とし、糞憲法を押し付け、カエルの小便より下衆なアメリカの低俗かつ空虚な文化を日本に流入させ日本人の精神を徹底破壊したのだから、その罪の重さは計り知れないからだ。
10.「お前達は、金目当てで訴訟を起こしたのだろう。」というメールもよく届きます。が、私が心から望んでいることは、ただ一つ、みなさんと一緒に温泉につかりたいということだけなのです。
以 上